思いもしなかった自分の変わりように、ふと気付くことがある。「やっと暖かくなったね!(Endlich!)」のセリフをすれ違うすべての隣人知人と交わしたんじゃないかと思う、そんな週の土曜の夕方は、きっとその時だ。
Notes
ものはいいよう、捉えよう
思いがけず空いた3時間を潰すのは、なかなか難しい。友人とのディナーの待ち合わせを3時間も間違えるのは、もっと難しいかもしれない。「大人としてどうよ」とか、シンプルに「間抜け」なのだという可能性もでてきた。メッセージの早合点とは、なんとおそろしいのだろう。単語の意味はすべて理解できたとしても、わたしはその内容を「ほんとうに」わかっているのだろうか? いまいちど気をつけなくてはと反省する。でも「3時間を潰す」くらいで済んだのだし、うろうろしながら発見もあって意外に楽しかった。だから今回はむしろラッキーじゃないの?ということに(しばらくしてから)すぐなった。感謝?かもしれない。
『ケイコ 目を澄ませて』
顕微鏡を熱心に覗き込んでいたら、普段はぼんやりとするいろいろが鮮明に視界を占領して、まるで現実サイズのもろもろはどこかへ消えてしまったような感覚になる。小さいと思っていた世界がほんとうは小さくなくて、逆に世界とわたしをすっぽり包み込んでしまったみたいに。ー そんな体験から戻ってきたあとの疲れ(のようなもの)が、観賞後に残った。
見る世界
あるとき、友人から久しぶりのメールがあった。自転車で思わぬ大きな事故にあって、2週間ほどの入院を終えて退院したところだという。昔、K(わたし)が朝の通勤時に背ろからママチャリに追突されて、カバンとピンヒールが吹っ飛んだ話を思い出した、というようなことが書いてあった。そう、あの日はやけに青空の綺麗な冬の朝だった。わたしはお気に入りのファージャケットを羽織り、いつもどおり小さすぎるバッグ(いまならスマートフォンだけでいっぱいになる)を手にさげて、薄いブルーデニムを気持ちルーズに履きながら、裸足にピンヒールで出勤する途中だった。晴天をはっきりと覚えているのは、転倒して地面から(文字通り)天を仰いだから。ぼんやりとした目が追った去りゆくママチャリの黒っぽい背中は、体の感じからして若い男性のようで、そのまま猛スピードで見えなくなった。
Do You Speak English?ーあるショートコメディから思うこと
とある仏語圏の田舎町で、ひとりの女性が地図を片手に困っている。車が故障してしまったので、このあたりで修理屋さんを探しているのだ。そこへ干し草を咥えた自転車の男性が、呑気に通りかかる。女性は「Do you speak English?(英語、話せますか?)」と話しかけるが、即座に「No, I don’t. Sorry(話せない、ごめん)」と返されてしまった。しかし意外にもスムーズに会話が成立したせいだろうか、女性は自分の状況をつづけて簡単に、英語で、説明する。男性はそれをしかと聞きとめたうえで「何を言ってるかわからないよ、一言も理解できないんだ」と応え、流暢な英語で「もう少し学校で真面目にやってればよかったんだけどね」などと付け加える。
『夜の来訪者』/ “An Inspector Calls”
子どものころ、欧州の空気(のようなもの)に惹かれた。物語を読み映画を観ては、その空気を頭のなかで吸っている気になった。鬱蒼としてどこか暗く、それでいてカラッとしている。こちらに来てしばらくして、その欧州っぽさはただの「堆積した埃」ではないかと思うようになった。ピカピカでないものの発する意味あり気な鈍い光。古いもの、なかなかどかないものの落とす色の濃い影、湿気のない空気。その条件からうまい具合に光に透けて、薄っすら積もりゆく埃。たとえば「裾のほつれたセーターをさらりと着こなす素敵パリジェンヌ」が成立するのは、シンプルに、人がそのような埃のなかに暮らしているからではないかとさえ思う。
ある犬の可能性
ある晴れた日の早い夕方、ふっくらより随分ふっくら気味のパグ犬が、自分の頭くらいの大きさの何かを口に咥えてゆさゆさと歩いていた。犬はリードには繋がれておらず、少し前を似たような姿のマダムが散歩していて、間違いなく飼い主だった。パグより先に進みながら、パグより遠くへ行き過ぎないようにしている。忘れたころに時折立ち止まり、後ろを振り返っては相棒との距離を確かめていた。
Physiotherapie
わたしがひととおりの説明を終えると、「いつからそんなふうに曲がってる感じですかね?」とストレートに聞かれた。心当たりがないわけでもない。それでも、そんなにはっきりと指摘されたことはさすがにないので一瞬ドキっとする。
「生まれつきらしいです」とお答えした。首の骨のことである。
うまくわからない
髪に触れるのが本職のFは、言葉と遊ぶのも好き。「コンニチハ、ゲンキ??デシタカ」いつも日本語の挨拶とともに現れる。
指揮者クラウス・マケラ、ベルリン・フィル・デビュー
クラウス・マケラ、1996年フィンランド生まれ。オスロ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であり、2021年からパリ管弦楽団の音楽監督を兼任。2027年にはコンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者となることが決まっている。紹介文の華々しさそのままに、彼のデビュー公演は連日完売だ。演目はショスタコーヴィチとチャイコフスキー、いずれも交響曲第6番である。
ベートーヴェン、ピアノソナタ第30番、第31番、第32番
誰にでも「Bad Day」があるとしたら、昨日はおそらくそれだった。そこに居合わせた誰もが「なんか今日ついてないな」と思ったーとしてもおかしくなかった。内田光子が弾くのは、1820年から1822年にかけて書かれたベートーヴェン最後の3つのピアノソナタである。4月5日のロンドンを皮切りにして、彼女はひと月のあいだ、このソナタのリサイタルでヨーロッパ6都市を巡る。ベルリンは4つめ(ちょうど弾きこなれたころ)の訪問地で、いずれも一夜限りの独演会である。
OHLIGSMÜHLE
実現しなかった過去の未来は現在ではない。
どこへいった?
Tanztheater Wuppertal / Pina Bausch
オペラハウスのホールは人で溢れていた。「昼間はいったいどこにいました?」ついそんなふうに聞きたくなった。彼らはそれぞれに意志を感じさせるような(しかしシンプルな)ファッションで、さりげなく手にもつビール瓶のさりげなさがクールでまた素敵だった。つい数時間前にゆらゆらと歩き回ったヴッパタールの街では、まったく見かけなかった光景。それも当然かもしれない。
ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第3番
べルリン・フィルハーモニーは久しぶりのほぼ満席。DSO(ベルリン・ドイツ交響楽団)の演奏はこれまで聴いたことがなく、ピアニストは代役指名を受けた藤田真央。彼の演奏もはじめて。楽しみである。
この夜の指揮者オクサーナ・リーニフは、焦げ茶の太い帯のようなベルトを細身のウエストに巻きつけていた。わたしはすぐにウクライナの伝統的な戦士の衣装を連想してしまう。こちらの席は彼女を斜め前方から見据える位置にある。そのせいもあったはずだけれど、視線を外すことがなかなかできなかった。
『都会のアリス』/ “Alice in the Cities”
モノクロ映画で眠たくなるのは仕方ない。お洒落な単館系作品の鑑賞に耐えうる「尖ったスピリット」は、もう持ち合わせていないのだから。そういうことにしていたが、そうでもなかった。スピリットは「まる」のままでも「眠るかどうかは作品に依る」という、きわめて納得の映画体験となった。
Der Himmel über Berlin
深夜の空港。タクシーはキツい煙草の匂い、カーラジオから大音量のヒップホップ。眠たいけど、眠れそうにない。ドライバーのお兄さんは言った、現金かカードかなんて「egal(どっちでもいい!)」。
ベルリンに、戻ってきた。
RETTUNGSDIENST
ベルリンの救急車のサイレンは驚くほどうるさい。すっかりうまく驚かされているわけで、サイレンの目的からすれば実に優秀ということになる。真横を走り抜けるとき、子供も大人も両手で耳をすっぽり隠すのをよく見かける。わたしもいつも、そうしてしまう。そのとてつもない音量が、誰かを救う信念の大きさに関わるわけでもない。けれどベルリンの日々の暮らしのなかで、誰かに助けてもらうことは本当によくある。
Graffiti
行儀良くみえる不思議。
時計の修理
「最低でも4、5年ごとにメンテナンスしないと、時を刻めなくなりますから。」
自分事として受け取らせていただいた。
Lietzensee
景色のさかさま、湖のふちから。