わたしがひととおりの説明を終えると、「いつからそんなふうに曲がってる感じですかね?」とストレートに聞かれた。心当たりがないわけでもない。それでも、そんなにはっきりと指摘されたことはさすがにないので一瞬ドキっとする。
「生まれつきらしいです」とお答えした。首の骨のことである。
わたしがひととおりの説明を終えると、「いつからそんなふうに曲がってる感じですかね?」とストレートに聞かれた。心当たりがないわけでもない。それでも、そんなにはっきりと指摘されたことはさすがにないので一瞬ドキっとする。
「生まれつきらしいです」とお答えした。首の骨のことである。
髪に触れるのが本職のFは、言葉と遊ぶのも好き。「コンニチハ、ゲンキ??デシタカ」いつも日本語の挨拶とともに現れる。
クラウス・マケラ、1996年フィンランド生まれ。オスロ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であり、2021年からパリ管弦楽団の音楽監督を兼任。2027年にはコンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者となることが決まっている。紹介文の華々しさそのままに、彼のデビュー公演は連日完売だ。演目はショスタコーヴィチとチャイコフスキー、いずれも交響曲第6番である。
誰にでも「Bad Day」があるとしたら、昨日はおそらくそれだった。そこに居合わせた誰もが「なんか今日ついてないな」と思ったーとしてもおかしくなかった。内田光子が弾くのは、1820年から1822年にかけて書かれたベートーヴェン最後の3つのピアノソナタである。4月5日のロンドンを皮切りにして、彼女はひと月のあいだ、このソナタのリサイタルでヨーロッパ6都市を巡る。ベルリンは4つめ(ちょうど弾きこなれたころ)の訪問地で、いずれも一夜限りの独演会である。
実現しなかった過去の未来は現在ではない。
どこへいった?
オペラハウスのホールは人で溢れていた。「昼間はいったいどこにいました?」ついそんなふうに聞きたくなった。彼らはそれぞれに意志を感じさせるような(しかしシンプルな)ファッションで、さりげなく手にもつビール瓶のさりげなさがクールでまた素敵だった。つい数時間前にゆらゆらと歩き回ったヴッパタールの街では、まったく見かけなかった光景。それも当然かもしれない。
べルリン・フィルハーモニーは久しぶりのほぼ満席。DSO(ベルリン・ドイツ交響楽団)の演奏はこれまで聴いたことがなく、ピアニストは代役指名を受けた藤田真央。彼の演奏もはじめて。楽しみである。
この夜の指揮者オクサーナ・リーニフは、焦げ茶の太い帯のようなベルトを細身のウエストに巻きつけていた。わたしはすぐにウクライナの伝統的な戦士の衣装を連想してしまう。こちらの席は彼女を斜め前方から見据える位置にある。そのせいもあったはずだけれど、視線を外すことがなかなかできなかった。
モノクロ映画で眠たくなるのは仕方ない。お洒落な単館系作品の鑑賞に耐えうる「尖ったスピリット」は、もう持ち合わせていないのだから。そういうことにしていたが、そうでもなかった。スピリットは「まる」のままでも「眠るかどうかは作品に依る」という、きわめて納得の映画体験となった。
深夜の空港。タクシーはキツい煙草の匂い、カーラジオから大音量のヒップホップ。眠たいけど、眠れそうにない。ドライバーのお兄さんは言った、現金かカードかなんて「egal(どっちでもいい!)」。
ベルリンに、戻ってきた。
ベルリンの救急車のサイレンは驚くほどうるさい。すっかりうまく驚かされているわけで、サイレンの目的からすれば実に優秀ということになる。真横を走り抜けるとき、子供も大人も両手で耳をすっぽり隠すのをよく見かける。わたしもいつも、そうしてしまう。そのとてつもない音量が、誰かを救う信念の大きさに関わるわけでもない。けれどベルリンの日々の暮らしのなかで、誰かに助けてもらうことは本当によくある。
行儀良くみえる不思議。
「最低でも4、5年ごとにメンテナンスしないと、時を刻めなくなりますから。」
自分事として受け取らせていただいた。
景色のさかさま、湖のふちから。
トラムを待ちながら。
ベスト16。久しぶりのフットボール観戦、自宅にて。ワールドカップ以来(これももちろん自宅観戦)のせいか、その均整のとれた試合運びに「日常」が戻ってきたのを感じる。
橋の上から。
“家にいても退屈するだけだと僕に言う人たちもいるよ。でも僕に言わせれば、もしそんなに家にいるのが退屈なら、家や一緒に住む人を変えたほうがいいと思うよ。僕にはそんな問題はないよ。”
ポン酢か胡麻だれか、that is the question.
Went to KaDeWe.
そんなに人は多くなかった。
Seezungeをオーダーした。See(海)から来たZunge(舌)と言われた。