Tanztheater Wuppertal / Pina Bausch

オペラハウスのホールは人で溢れていた。「昼間はいったいどこにいました?」ついそんなふうに聞きたくなった。彼らはそれぞれに意志を感じさせるような(しかしシンプルな)ファッションで、さりげなく手にもつビール瓶のさりげなさがクールでまた素敵だった。つい数時間前にゆらゆらと歩き回ったヴッパタールの街では、まったく見かけなかった光景。それも当然かもしれない。

ピナ・バウシュの本拠地に、1993年初演の、とりわけマイナーな彼女の作品をわざわざ観に来ているのだから。ほとんどいつ見ても売り切れのチケットサイトで、Rがある午後ふたつ横に並んだ空席を見つけてくれなかったら。4時間半のあいだ進行方向と逆向きに座って、雨水に汚れた窓からは大した景色も見えず、スケジュール通りに走るつもりなど初めからないように思われる高速列車に揺られることがなかったら。そして10年以上前に東京で観たいくつかの公演(チケットは3倍ものプライスだった!)の強烈な体験がなかったら、わたしもその日のそのオペラハウスにたどり着くことはできなかった。そんなふうに多くの人たちが「わざわざ」を幾つも重ねて、きっと日常より強めの、期待まじりの緊張感を持ってあの場所へ来ていたのかもしれない。感じる会場の空気がちょっと特別だったのは、そんなわけもあったのだろう。

その日の演目である「Das Stück mit dem Schiff / The Piece with the Ship」は、ピナ作品のなかではほとんど知られておらず、またほとんど上演もされてこなかった。最初のうちは題名すらなかった。作品はただ「Tanzabend Ⅰ – ein Stück von Pina Bausch / Dance evening Ⅰ – a piece by Pina Bausch」と名乗っていたくらいなのだ。ピナにこの舞台のインスピレーションを与えたのは、1枚の写真だという。干上がって白い砂地となったアラル海(中央アジアのカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖)と、そこにうち捨てられた一艘の船、船の残骸。人間が使う水の量が、湖をたもつ塩分のバランスを破壊してしまったのだ。20世紀最大の環境破壊ともいわれる「アラル海」の象徴的なイメージと、イメージが示唆する(あるいは示唆しそうな)大義あるメッセージが浮かんできそうだ。ところがピナはいつだってメッセージを投げない。そしていつもどおり、作品のもつ意味はわからないけれど、作品を満たす動きはわかりやすい。たとえば冒頭、ダンサーが自分の手で自分の頬を叩くようなユーモラスな動きがあった。バレエ的ではない、日常的におよそ誰もが「わかる」そんな動作。それはその場面だけにとどまらない。ひとつの種となって飛ばされて、ほかのダンスシーンにもしっかり着生する。それぞれに少しずつ、違った花のかたちとなって、ひとつの日常的な動作が舞台に息づき広がりをつくってゆく。しかもそのような動きが何種も同時並行的に演目のなかにあって、何層にも重ねられるのである。「自分で自分の頬を叩いて、で、どうなのよ?」と聞かれたら正直なところ苦しい。言葉で説明することはできないけれど、わたしの目も頭も「わかった」と「完全に」「感じている」のです、そうお応えするしかない。

結局、船がどうのというよりも、作品は「Dance evening Ⅰ」という名前のない名前が似合っていたのかもしれない。2時間45分の長尺において、ダンスはめくるめくソロがほとんどを占めていた。前半は淡々とした人の営みの記録のようにも思えたし、後半は前半とは対照的に、人の生に対する滑稽なまでにポジティヴな意志が物語られていたような印象もある。なにより全幕をとおして「命懸け」で踊っている感が充満していた。21人のダンサーが一列になったり輪になったりして揃いのダンスをするシーンは圧巻で、演目のアクセントとなっていたことは間違いない。「タンツ」というドイツ語が妙にしっくり来る瞬間であった。

わたしは高揚そのままに、エントラスホールで1冊本を買って帰ることにする。ぶら下がり式モノレール、ヴッパータール空中鉄道(Wuppertaler Schwebebahn)で行きの道を逆に帰ったらいい。溢れかえる駅のホームで14分ほど待っていたら、ついさきほどまで舞台を走りまわっていたダンサーの姿に気がついた。彼らも同じモノレールで帰るのだ。「タンツ」というドイツ語が、違うアクセントをもってわたしのなかに跳ねた。

“Das Stück mit dem Schiff / Ein Stück von Pina Bausch”, Tanztheater Wuppertal, 参考資料:Das Stück mit dem Schiff: Ein Stück von Pina Bausch. Tanztheater Wuppertal Pina Bausch, 2023. Broschüre.

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