去年の映画賞レースでタイトルが踊るのを横目に通り過ぎた。評判も耳にして意欲はあったはずなのに、実際に観るまでなんと時間の掛かったことか。忙しいふりをしているのか単に怠惰なのか、境目がぼんやりとしてよく見えない。見えなかったことにしよう。
ところで「見えなかったことにした」ものは、意外と実は「本当に目で見えている」ものより「見える」ものだったりする。映画はそんな話だったように思う。
鑑賞前にちらほら仕入れた情報からすると、舞台はマルチバース(多元宇宙)であるらしい。主人公のエヴリンは、別世界で別様に生きる自分の驚きの能力にアクセスして、世界を救うために戦う。そこにテーマとしての家族愛があるとか、ないとか。
ところが観終わってみれば、そうでもなかった。映画の世界はマルチバースではなく、ユニ(one)バースだった。ひとつの現実世界以外は、実際にはどれも存在しないのではー。派手なバトルは起こらなかったし、多くの血は流されなかったのだ。現実以外のほかのすべては、エヴリンの頭の中の、いくつもの散発的なイメージが生み出した空想にすぎない。
この主人公はとてもよく、言い間違えや思い違いをする。たとえば『レミーのおいしいレストラン』のレミーは本当の設定ではネズミなのだけれど、エヴリンのなかではアライグマに置き換わっている。そんなふうにある瞬間に彼女の頭に焼き付けられた「確か、そんなんだったわよね」という思い(込み)が、この作品に立ち上がる複数の世界を生み出しているのだ。
「わたし歌好きだったのよね」の淡い夢は、眩しい人気歌手の自分を創りだす。目に留まった映画のワンシーンに「ひらひら踊って、なんか素敵よね」とひととき憧れたら、その「ひらひら」が誇張されて置き換わり、ふわふわに揺れる「ソーセージの指」が現れる。そうやってエヴリンは大女優にもなるし、カンフーマスターにだってなる。誰しも一度くらいは妄想で「なった」ことがあるはずだ。(わたしですら「ケンシロウならこれ、秘孔つくかもよ」と思う怒りの瞬間がなかったこともない。)
エヴリンは娘のことを絶望的に理解できない。「なんでそんなふうになっちゃったのかしら」と半ば恨めしく思えば、「実は娘に悪魔的なものが取り憑いている」設定が立ち上がってくる。仮にもしそうなら、親として自分を責める必要から少しだけ解放されるだろうか。そして「あなた太ったの、ベーグル食べすぎじゃない??」と心で責めていたら、ついにベーグルはカオスの象徴になってしまった。
現実が積み重なる困難で光を閉ざされ、いよいよこれは袋小路というそのときに、バランスが崩壊してエヴリンの頭の中のイメージが弾け飛んだのだ。目の前のものを見失ってばかりの彼女に力を取り戻させたのは、現実よりもヴィヴィッドで(良い意味でも悪い意味でも)愛とエネルギーの充満した「見えなかったことにした」ものたちであった。
「目の前のものを見ろ」とか「大切なものは目に見えない」とか、目については大抵いつだってややこしい。このあいだ人生初のMyメガネ(近くがどうにも見えにくく・・)をつくったわたしだから、もしかすると開眼する日はそう遠いこともないかもしれない。
“Everything Everywhere All At Once” (2022), Directors: Daniel KwanDaniel Scheinert