KI

毎日できればチェックする19時のニュースに、このところKIがよく登場する。万国共通に話題のAIである。Artificial IntelligenceはKünstliche Intelligenzとなるわけで、その頭文字を繋ぐとKIになる。それはドイツ語のアルファベット読みで「カーイー」と発音される。同じ一つの内容を指しているのは明白だけど、聞くたびいつも咳き込みそうな苦しさが肺のあたりに充満する。「ケーアイ」ですらニュースの理解が一瞬遅れるのに、「カーイー」となれば3秒くらいは簡単に置き去りにされてしまう。「わかるけどさ、もういいじゃない」お決まりの独り言が条件反射みたいにこぼれた。

「われわれ」の言葉で言い換えたい、名前を呼びたい。そういう気持ちはわからなくもない。けれどそうして呼び換えられたものは、どこか中身まで別のものになっている気がする。目で捉える文字の形と、耳に落ちてくる言葉の音。その両方の組み合わせで、あるもののアイデンティティを経験的に自動的に認識しているせいだろう。「KI」と映って「カーイー」と鳴れば、それはもはやAIとは別モノになる。

その意味では二重にかすかに、わたしも10年のあいだに別人になったのかもしれない。まずは苗字。なぜかわからないが日本の決まりではどうにもならないらしく(理由はめでたいが)変わることになった。個人的には「もうひとつ増えた」感覚でいる。それから名前。これは想定外で、ドイツへ来て失った。わたしの名前が声に出しては読み難いなんて、これまでちっとも気づかなかった。むしろ超有名な彼女(Yoko)にKを足しただけ、呼びやすいでしょうくらいに構えていたのに。

こんなことならいっそ、本当の名前から変型した(トランスフォーマーみたいに)別個の愛称を持っていればよかったのかも、と遅まきながら考える。映画業界にいた頃の上司や先輩は、そんなふうだった。しかし自ら「Call me Kate」あたりを宣言するには、デリケートなカッコつけなのだ。それにそもそも名前はきちんと発音されていたはず。もしかしたらあの時、やりとりしていたほとんどがアメリカ人だったことと関係があるのだろうか。

ともかくこちらの大陸で、わたしはキョーコでなくて、キオコになった。21世紀のモダンなヨーロッパで、EUの大国、その文化的多様と自由の根づく都市の真ん中で、わたしは100年以上は遡りそうな日本婦人的響きを名前にたずさえて、もう一度新しく登場することになったのだ。正直なところ、中身についてはよくわからない。今までのわたしはそこに丸ごと全て入っている、「でも、それは丸ごと全くオリジナルじゃなくてコピーですよね」と誰かに言われたら沈黙するか、逆に「なんでだと思う?」と聞いてみたい。

しかも呼び名とシンクロして、キオコのなかの記憶や情報は少しずつ「言い間違い」みたいにズレて保存されている気もするのだ。たとえば「辛子蓮根」が「辛子大根」になって、「青豆と天吾」が「空豆と大吾」になり、「鎗ヶ崎の交差点」が「假屋崎の交差点」になったりするみたいに。ぜんぜん違う本来存在しえないものが、とある拍子で「遅れて来た双子」みたいに似た響きをもって世界に生まれてしまったみたいに。

わたしはこちらで名乗るたびに、キョーコに似た微妙に出来損ないのキオコを演じている?ー そういうプレイは確かにあるかもしれず、といって嫌がっているわけでもなく、思いがけず楽しんでいなくもない。どちらも出来の良いものではないけれど、後から来た方をとりわけいっそう鍛錬しつつ、双子をしっかり盛り上げていけるのか。それが目下の問題だ。あるいはいつか、1人のわたしになるかもしれない。もっと増えたらちょっと困る。