古本はいつも朝やってくる。昨日は英国オックスフォードから、Jorge Luis Borgesの『The Book of Imaginary Beings』。今朝はオーストリアとチェコ国境に接するドイツ南東部のパッサウから、Oliver Jahrausの『Literaturtheorie』が届いた。幻獣辞典と文学理論、柔らかいものと堅いもの。本当にまつわる噂を集めた本と、嘘みたいに本当らしく知がまとめられた学術書。こんなにも態度の正反対な本を、どちらも同じ真剣さで同時に読み進めるのは、ひょっとして不健康な行為では?という気もした。けれどかえって心と頭にとっては健全な試みかもしれない。いっぽう方向の似た態度ばかりの本をせっせと吸収し続けていたら、良くないことしか起こりそうにない。
文学部を選んだくらいだから本は好きな方と自負していたけれど、卒業して仕事に入り込むうち少しずつ遠ざかっていったのだと思う。時々手にするとしても新刊小説がほとんどで、そもそも古書は「もの」としてずっと苦手だった。脂の染みたような手触りとあの独特の匂いに、わたしは人間と時間の強烈な気配を感じてしまう。過去にどれだけたくさんの人の指がページを繰って、その目が書かれた文字を追いかけたのだろう。いつの間にか、Geist(ガイスト)が本にうつってしまったとしても不思議はない。
子どもの頃は、図書館で借りた本に無性にそわそわしてしまう理由がわからなかった。せっかく借りたはずなのに、できればすぐに読み終えて、早く元のところへ返してしまいたかった。わたしの部屋から出ていって欲しかった。きっとGeistがそうさせたのだ。いまはぴったり来るドイツ語を知ったせいで(ようやくわけがわかった!というふうに)落ち着かない気持ちを消化できたのかもしれない。ベルリンに来てからよく図書館で本を借り、ネットで古書を取り寄せている。
もしくはシンプルに「ただ気にならなくなっただけ」ということもあるかもしれない。ここで暮らしていると、(好むと好まざると)自分の目盛の単位が大きくなってしまうのだ。引き換えに細やかなものを計れなくなるのは哀しいけれど、そうならないよう気をつけたいけれど、いつだって「全部は手に入らない」と思っている。いま生きる環境にフィットするどちらかを選ぶことになるなら、わたしは小さな体にアンバランスな大きな目盛を持つしかない。そんなわけで本に宿るGeistが気にならなくなったのは、その単語を知って正体がわかったせいなのか、わたしのドイツ目盛のせいなのかわからない。でもいずれにしても、必要に迫られて古い本を読むしかないわたしに「気にならない」のはありがたい。
それにこちらの大学図書館の、ドイツ目盛的な大胆さはとても気持ちがよい。ある夏のはじめ、わたしはまとめて多くの本を借りようとして、ヘルプデスクの女性に貸出冊数の上限について聞いたことがあった。彼女はたっぷりとした包容力の後光を背負って、「いいえ、あなたの借りようとしている数はまったく問題ないのよ、1度に100冊までいけるのだから」と答えてくれた。一瞬聞き間違えかと思ったけれど、帰りの電車で検索したら「1度に100冊まで」と確かにあった。どうやらドイツ目盛を自称するには、わたしのそれはまだまだらしい。
ところで「気になる」よいことも、古書に見つけた。たいていの古い本はすすけたり、端の擦り切れたりしたリネンで固く装丁されているのだけど、赤みの強いボルドーのしっかりした生地にライラック色の文字が載せられていたり、限りなく黒に近いグレーの薄手リネンに銀箔のタイトルが刻印されていたりするのだ。こんなシックで素敵な組み合わせがあるのねえ、と感嘆してしまう。カラフルから程遠い黒の街に暮らしていたら、いつのまにか本棚とデスクの周りがいちばん華やかな場所になっていた。
こうして朝に立て続けでやってきた古書をちっとも読まないまま道草ばかりしていたら、なにやら神妙なプレッシャーを感じた。積まれた本から、Geistが沁み出している。