移る季節

今週から夏が終わった。クローゼットの下の、手前のほうに重ねておいた新しいお古のカシミアセーターを引っぱりだした。コットンTシャツの上に、頭からすっぽりかぶってみる。するといつも幸福な気分になる。「はい、いまはまだ寒くはないですよね。でももしも万が一急に、本当に必要になったときには、あなたの味方としてもう傍にいるんですから安心」ーそう言って、毛ものは囁きながらわたしの肌に密着して、確かにほとんど1年中傍にいる。クローゼットで眠っている時間は、長くてせいぜい3ヶ月だ。

摂氏30度を越えてお祭り騒ぎした夏は、気づけばずっと後ろのほう、ベルリンからはもう見えないくらいのあたりまで遠ざかってしまった。2週間前に淡い秋の気配をロンドンで感じてから、予感は一気に現実となった。スコットランド製の薄い丸くびセーターをお土産気分に買ったのは、我ながらよい見立てだったと思っている。

毎年のことになるが、夏は激しさと共に去る。それはたいてい強烈な暴風雨で、うだうだと残っていたおくれ毛みたいな暑い空気を一掃してどこかに消えていく。そしてそんな日の翌日には、もう当然みたいに秋が始まっている。何年か前に、バルコンに植えたばかりの花が株ごと飛ばされてしまったことがある。翌朝気がついて慌てて下を覗いてみたら、マンション前の通りに紫の小花がぼそっと落ちていた。すぐ取りに行ってまたせっせと植えて、その冬まで元気だったことを思い出す。

数日前の夜も、嵐がやって来るのをわたしは知らなかった。ちょうど新しく赤いゼラニウムを植えた翌日だった。「一度経験したことであっても、それが起こっている最中には立ち向かう術がない。なす術もない」というのは、こういうことなんだと知ることになる。暴風雨がバルコンに到着したのがわかった時には、もうゼラニウムは大袈裟すぎるほど前後左右に揺れていた。窓ガラスには音を立てて雨が叩きつけている。視界は半透明に白くなって、窓の外はなにも見えない。まだそこにあるらしい赤色だけを微かに感じることができる。ぼんやりした花の色を頼りにして、嵐が去るまで見守るしかない。

あれはどのくらいの時間だったのだろう。そんなに長くないはずの嵐の後で、新入りの赤いのはまだ我が家のバルコンにいた。「ああ!」という安堵なのか興奮なのかわからない声を出して、わたしは両窓を勢いよく開き、バルコン用スリッパをつっかけて飛び出した。水が溜まっていたものだから、靴下は水浸しになってたぽんたぽんに膨らんだ。土を触って、茎を立てて、花弁にのしかかった水をはじいていく。意外にもゼラニウムはしっかりと根を張って土に鎮まり、頼もしく咲いていた。それでもほんの少し右に傾いた茎のために、割り箸を傍に刺して支えてあげよう。キッチンから使い古しの割り箸をRが持ってくる。そこで気がついた。経験は実は、積まれていたのだ。残念ながら、わたしにではなかったけれど。ゼラニウムを植えた(またゼラニウム以外も全て植える役の)Rに、着実に。

もっぱら水遣り専門、霧吹き専門のわたしは今朝もバルコンに立つ。そして夕方には、M宅のバルコンにも立つ。これだって立派な経験になるはずだ。スコットランドを北上して旅する彼女は、今ころ秋を通り越して冬の寒さにいるかもしれない。現地の天気は晴れ時々曇り、最低気温は摂氏10度、最高気温は17度。わたしは考えるだけで寒くなって、思わず腕まくりしたセーターの袖を引っぱった。