それはぜんぜん違うこと

フラウ・プロクシュの話では、どうもわたしはModalverb(助動詞)やKonjunktiv II(仮定や願望・丁寧を表す「接続法第二式」)を使い過ぎるらしい。とくに「können」ー英語でいうところの「can」は『多すぎる』そうだ。

断定調を避けるために使うクセは自覚しているけれど、彼女の指摘するその理由が「わたしが日本人だから」なのか「わたしがわたしだから」かはわからない。きっと、おそらく、両方かもしれない。

相手に選択の余地を残すことが「礼儀」をともなう「思いやり」の行為で、きっと「適切」だろうと考えてしまう。
「もしよければ、○○して頂くことはできますか?」
こうお願いすることは、おそらく日本語的にも、そして多くの日本人的な感覚からしても、大抵の状況においてまったく適切であるように聞こえる。
「○○してください」のほうが、よほど不穏な響きをもっている。

ところがフラウ・プロクシュは続ける。
「それはぜんぜん違うのよ。だって『Ja, ich kann, aber ich will nicht』ってこともありえるじゃない」
そんなこと、思いもしなかった。
『勿論できるよ、でもやりたくない』ーそういう返事だって十分に有り得るのだし、ちっとも間違ったことではない。
言い切る彼女のドイツ語と筋は完璧で、鮮やかなほど当然で、笑ってしまった。

大きな公園の真ん中に立つ自分を思い浮かべる。わたしは「よければボール!こっちに投げてもらうことできますかー!?」と遠くの方の相手に叫んでいる。
すると「ヤー!」と頼もしい声が返ってきた。
受け取る準備はできている。足をすこし開きバランスをとって構える。わたしはその瞬間、「ボールが投げてこられない可能性」をほとんどまったく思いつかない。

「それはぜんぜん違うのよ」

相手に選択の余地を「ほんとうに」与えるのなら、そういうことになる。ボールは投げられるかもしれないし、投げられなくたっていいのだ。
そもそも想像してたような「野球のボール」じゃないかもしれない。彼らの球技はサッカーだから、投げるどころか蹴られて飛んでくるかもしれない。

かたちだけの「礼儀」や「思いやり」や「適切」なことには、限界がある。想像力を全開にしないナイーブな「正しさ」は壊れものだ。ベルリンで暮していると、わりとよくそんなことに出合う。
フラウ・プロクシュは間違ってなかった。
先生。わたし、なんとかまだこの街とドイツ語でやってます。ーIch kann, und ich will.