ある日の午前中、空気を入れ換えるために窓を開けたら、カレンダーの裾がはためいて斜めになってしまった。空の奥行きがわからないくらい曇った日には、風が強いのにも気づけない。レシート用紙で手づくりした月めくりカレンダーは細長すぎて、風がなくても真っすぐでいるのは難しいのだ。「まぁ、斜めとはいえ右肩上がりだし、悪くないかもね」と目で認めながら、わたしはやはり律儀に直してしまう。明日の日付の左側にちいさな赤丸シールが付いていた。「予定がある」らしい。
きちんとした大人は携帯電話やスケジュール帳に細かく予定を書き込んで、まめに確認したりシェアしたりするものかもしれない。残念ながら、こちらはそうでもない。レシート・カレンダーのちいさな赤丸こそが、わが家の予定のすべてを司っている(ことになっている)。それでときどき赤丸の宣言する「ある!」という予定がいったい何だったのかどうしてもわからなくて、情けない手つきで電話に手掛かりを探すこともある。ちなみに「爪・手」「爪・足」と携帯カレンダーにこまめに書き込んでる人がいるのだけど、それはただ「爪を切った記録」で予定じゃないよね、と思う。
明日の予定はすぐに思い出した。先日オーダーしたAmazonの荷物を待つ日である。この「荷物を待つ日」はここ5年くらいでわりとレギュラーになった予定で、オンラインで買いものをしたら配達日は家にいると決めている。それから、お届けの人が「隣人のも預かってくれない?」と聞いてきたら、即座にJa/Yesと応えること。それもできれば(普段はできない)西海岸風の笑顔で。箱の大きさにも個数にも惑わされずに、わたしはただ「受けとる者」になる。
そんなふうに決めたのは、2019年のケン・ローチの映画『Sorry We Missed You(邦題:家族を想うとき)』を観てからだ。イギリス北部のニューカッスルで、宅配ドライバーの仕事をする主人公とその家族の話である。監督の原動力である「怒り」がこちらにも伝播するのだけど、怒りの矛先に目を凝らしてみると、自分の姿も薄っすら見えなくもない気がした。とりあえず「できることからしよう」ということで、荷物を受けとることに決めた。
ところが、一日中待っていても荷物を受けとれないことはしばしば起こる。ピンポンも鳴らず、ノックもなかったのに「不在でした」と決めつけられる。あるいは配達のタイミングすら知らされないまま「配達しました」となっている場合がある。そういうときは決まって腹が立っていたのだけれど、最近は「ほほう」くらいで、次の方策にエネルギーを注ぐようになった。「荷物だけ受けとるつもりでいたら、いつのまにか心ひろく、おおくを受けとめ(られ)るようになった人がいた」ーそんな話を聞いたことがある。ような、ないような。