ベルリン、布団から想う

ついに地球が沸騰してしまったので、ベルリンでも夏には夏の掛け布団が必要になった。ほんとうはそんな街ではなかった。もちろん10年やそこら住んだくらいで「ほんとう」のカケラも知るはずはないけれど、わたしにとってここは「365日おなじ1枚の掛け布団で眠る」街だった。つい、ほんの3年前まで。

といっても運よく変わらないこともある。この街では「必要になった」からといって、それは簡単に手に入らない。そもそも「タオルケット」というものは存在しないことがわかった。代わりのビーチタオルは薄いやら細長いやらでうすら寒く、本気の睡眠にはまったく向かないこともわかった。暑さ対策といっても寒くなりたいわけではない。暑くなくなりたい。だってわたしは寒い方がずっと苦手なのだ。けれど願いはなかなか叶わない。ひょっとしてハレの場に舞うべきビーチタオルを、日常事のグースカなんかに使おうとしたのがいけなかったのか。きっとそうだ。

結局、わたしはその夏を馴染みの「年中布団」でやり過ごすことになる。もちろん寝不足にもなる。いっぽうのRは2枚のビーチタオルを手懐けて、絶妙な具合で眠りに落ちて寝息をたてた。つくづく高いコミュニケーションスキルがうらやましい。静かな我慢を越えて、ようやくふたりしてぴったりの夏布団を手に入れたのは昨年のことである。

夏の掛け布団がもたらしたのは、(すこし大げさとはいえ)自由と豊かさだった。また別の選択肢、オルタナティヴがあるということは、こんなにも視界をひらき精神を潤おすものかと驚いた。わたしはなぜか自転車が女性を解放したことを思い出して、布団に乗って空飛ぶ自分を想像してみる。絨毯にできることを布団にできないわけがない。いつものように脱線していたら、ーいや、いいからさ、もうさ、体と頭をつかってさ、「ほんとう」に前に進みなさいよ、と声が聞こえた。語尾に最近「さ」の多いRの肉声か、わたしの内なる声かはわからない。

ところで、自由と豊かさを手にしたのは、短い休みをもらえることになった古参の掛け布団もおなじである。わたしは思い切って、布団をクリーニングに出すことにしたのだ。これまでは東京からの引越し便に乗せた布団乾燥機と変圧器マジックで、なんとかメンテナンスをしてきたつもりだった。けれどとっくに限界は超えている。今回ばかりは根本的にきれいにして、圧倒的に羽をふっくらさせてあげたい。

丸めた布団をIKEAの青いバッグに入れて、いつものクリニーニング屋さんに持っていった。10年前にはわたしより若くて、いまはわたしよりお兄さんになったお兄さんが店の奥から出てくる。挨拶を簡単に済ませると、お兄さんはぺしゃんこの布団を一瞥して「羽布団ね、オーケー」と指で短い鉛筆をひと回しした。それから伝票を書こうと動きかけたので、わたしは猛スピードの質問でお兄さんの行く手を阻んだ。「この布団、クリーニングしたらきっとふわふわになるんだよね?」

お兄さんは手を止め目を上げて、わたしの両目に視線を合わせた。「ああ、そう。テオレティッシュには、つまり理屈ではね、そうだよ。ふわふわになるね。」そして半呼吸だけおいて、すぐさまこんなふうに続けた。「でもこの羽布団、もともと薄めのタイプだよね?だからふわふわになるといったって、限界があるよ。ふわふわにはなるよ、でもね、君の思うようなふわふわになるかどうか、それはわからないけどね!」(ちなみに、彼らは決して怒鳴っているわけではないのだけど、「!」が付くくらい声が大きくて文末まで音量を緩めない。それどころがクレッシェンドするのである。)

「まあ、そりゃそうよね・・」と力無く同意しそうになって、わたしは我にかえった。この街では簡単に沈黙してはならないのだ。それにこれはただの布団ではない。この10年一緒に夢みてきた相棒なのだ。わたしはキッと低い声を張りながら言葉を返した。「わかります、たしかにね、限界はあるでしょう。でも少なくとも今この時点よりは、現時点よりは、確実にふわふわになるということなのでしょう?なら大丈夫、問題ないです。仕上がりを楽しみにしてます!」ぽんぽんとカウンターに置いた布団に素早くタッチして、じゃあねと言ってわたしはお兄さんの店を飛び出した。

2週間後、わたしが緊張しながら迎えにいくと、相棒はしっかり休暇を満喫したらしく別人のようにふっくらとなっていた。もうIKEAの青いバッグには入りたくないらしい。仕方がないから抱っこして、家まで連れて帰った。