暑い日の続いた週の終わり、ある日の夜にMからお呼ばれして、ラムのローストをいただいた。ひとつ階段を上がっただけの彼女の部屋には、なんとも香ばしくて食欲をそそる香りが充満している。同じ建物の違う部屋で、こんなにも華やいだ美味しそうな世界が進行していたなんて。つくづく扉の向こうはわからない。「料理したら冷房なしの部屋に熱気がこもるよね、困るよね」という理由でカルテスエッセン万歳の我が家からすれば、火を使うメニューなんてとても嬉しい、ありがたい。
わたしと、わたしより肉食傾向の強いRのために、何時間もかけてオーブンで焼いてくれたことを想像してみる(Mは彼の肉好きを知っている)。きちんとした性格だから、焼き具合を確認するのにきっとオーブンを何往復もしたはずだ。わざわざちょっと離れたところにあるスーパー「新鮮食材の楽園」まで行ってくれたらしい。ここ数日の暑さを考えたら、道中はかなり大変だったと思う。わたしなどは天気に関わりなく「楽園」とは縁遠いけれど。
ふっくら真新しい本革グローブみたいな塊の、絶品ラムのスライスをお腹に放り込みながら(ドイツに来て胃袋サイズはおかしいことになった)思い掛けない流れで「K(わたし)の典型的な日本人的ふるまい」に話題が移った。Mいわくそれは「礼儀正しさ」によるおこないであるという。
たとえばー、と彼女は続ける。その日わたしたちが来る前に、本当はもう少し部屋を綺麗に片付けておきたかったと。けれど手を抜いてしまって、掃除しきれなかったと打ち明けた(しかし室内は相変わらずクールだった)。ところが、彼女がわたしたちの家へ訪れたときはいつだってかならず礼儀正しく、豆腐みたいに部屋が整えられているらしい。
まずはにこやかに「Danke」となる。心と手を多少なりとも動かして迎えてくれている、と受け取ってくれたのなら悪くない。けれど「礼儀正しさ」より先に、あるいは同じくらいの場所に、別の大きな理由も寝そべっている。
だってわたしたちの家はMのとこよりとても、かなりとても、控えめなのだから。それにモノはおそらく平均的な家よりずっと少ない。時間はこの歳の夫婦の平均にしてはきっとたっぷり多い。だから掃除するのは難しくないし、そもそもRもわたしも掃除が嫌いではない。どちらかと言えば好き。掃除機を角丸にかけるのも気にならない柔軟性があるし、掃除した後の空気はなんといっても気持ちがいい。その気持ちよさがゲストにも伝わるのであれば、なにより心地いい。「礼儀正しさ」とかそんな大層なものとは、ほんのちょっと色合いが違うのだ。
ほかにも飛び出した。Mは「Kとのテキストメッセージは絶対にKで終わる」と断言する。会話の最後に彼女が送る「Danke」に、必ずわたしが礼儀正しく「Danke Dir auch(こちらこそ)」とか「Ja, auf bald(うん、じゃあまた)」と返すらしい。たしかに。濃いめの自覚があったから履歴を見直すのは嫌だったけれど、仕方がないから口をへの字にして昔のやりとりを眺めてみた。おっしゃるとおり、どうやら〆るのはKの使命みたいだ。
でもこれは「礼儀正しさ」からではない、とわたしは思うから、それこそ「典型的」なこちらの感じで「Nein」ときっぱり押し戻す。もしも「礼儀正しさ」の求められるビジネスでのメールなら、わたしはもっとスマートに対応できる。必要なことを必要なだけ伝えるくらいには大人である。あることの必要性に、過不足なくきちんと丁寧に取り組むことが「礼儀正しさ」なのだとしたら、わたしのMへの返しは「必要以上」のものだから、つまりぜんぜん礼儀正しくない。むしろ礼儀からは(願わくば)ポジティヴに、脱線している。
そんなわたしの態度はどこから来るのかといえば、明らかに濃い自覚がある。これはわたしの母である。たとえば「さよなら」をしたあとに、もうそれ以上は相手からも自分からも見えない位置まで来て、やっぱりもう一度振り返ってしまう。メッセージの終わりに相手から届いた「ありがとう」や「おやすみ」に心で応えたくて、やっぱり自分も「ありがとう」「おやすみ」とか「ハートマーク」を返してしまう。長いあいだ疑問もなく心地よく受け取ってきた彼女の仕方を、わたしはいつのまにか近くの誰かに、頼まれもしないのに勝手に繰り返しているのだろう。そんなわたしの2枚目な説明と、Rの3枚目的補足説明を聞きながら、Mはいつものように(そしていつの間にか塗り直された)真っ赤なリップを薄く結んで、ゆっくりかすかに頷いていた。
ときに「典型的」と呼んだり、呼ばれたりすることには怪しいものが混ざっている。けれどその夜、わたしは娘として母からの「典型的」な引き継ぎを、それこそ「礼儀正しく」果たしていたらしいことに気がついた。稀な暑さのせいか、楽園のラムのせいか、いつもは意識しないところへ辿りついてしまった。やはり扉を開けてよそへ出ると、わからないものでなにかしらある。
そしてちょうど今Mからメッセージが届いた。わたしはやっぱりハートマークで、このやりとりを〆ることになるだろう。