月曜日と現実

6月があと少しで終わる。けれどあなたのタスクは何一つ終わっていませんよ、という立て看板が至るところに立っているのが見える。サングラスをかけていてもはっきりと目に飛び込んでくる。わかっている。なにも終わっていない。そして何も終わらないまま終わってしまうことがあるのもわかっている。現実は甘くない。

まずExposéなる計画書を書くのに手間取っている。教授は「君の言っていることが想像ではない根拠を示す必要がある」と言った。「根拠をテキストのなかに見つけるのだ」と。だからわたしは根拠を探し回る、物語の文章のなかに。でもここ数日は暑かったり寒かったり、風が強かったり雨が叩きつけたりするものだから、布団のなかでもよく探し回っている。よく眠っているのだ、必要以上に。日中のあいだに溜まった熱気が部屋の上のほうに居座って、こちらが寝ている隙を見てじわりじわりと降りてくる。まとわりつく独特の生ぬるさであまり熟睡はできないから、断片的な眠りを積み上げる。結果的に全体の睡眠時間ばかり膨らんでしまう。

とても残念なことに、探している根拠が布団のなかで見つかることは全然なくて、もっと高いところを飛びたいのにガードレールのあたりを猛スピードで低空飛行(ほんとうに体で飛ぶ)する夢や、起きたら消える夢を見て終わる。それで起き上がって体勢を整えて、トーストをかじり珈琲を飲み、洗濯をしたり干したりこまこまとする。その後とうとうテキストを読み込みながら「やっぱりこうでしょう」と頷く瞬間がキラ星のごとく訪れるけれど、今度は「でもこれが根拠ですよ、と言い切る根拠をどうしよう?」となる。純粋にテキストのなかにだけ根拠を探して、それを断固として提示するのは意外と難しく、わたし的に心もとない。いかに自分の考えがふわふわとして、想像力頼みのことが多いというのを思い知らされる。

そういえばまだティーンだった頃、新聞があまり好きではなかった。そこに掲載されているあれやこれやの情報を体に入れると、なんだか息の通り道が細くなるような気がした。むしろそこに書かれていない世界を想像する方が好きだと暢気に信じた。けれどある時、こちらの大学院の授業で教授が「新聞は戦争だ」と言い放つのを聞いた。たしかに。新聞にあるのは人間と人間の争いだったり、企業と企業の競争だったり、宗派と宗派、国と国とのあいだの本物の戦闘で、違うフォルムと濃淡をもってはいるけれど等しく「戦争」だった。新聞は「世の中の情報」くらいに認識していたわたしに、彼の言葉が重たく響く。そして思う。「戦争」の責任は大なり小なり大人が引き受けなくてはならないものだ。本当に引き受けるのがどういうことかは置いておいても、最低限その現実を知る必要はある。想像力だけでは足らない。エンジンだけ立派でも、タイヤのない車はどこへも行けない。

けれどわたしは行かなくてはならない、と気持ちを引き締める。それがもうひとつの今月未達のタスクだから。公共交通機関のひと月乗り放題チケットが残っているのだ。あと3回は絶対にどこかへ行き、毅然として家に帰ってこなくてはならない。もちろんそれでもプラスマイナスゼロで、チケットの有効利用からは程遠い。しかし最低限しなくてはならないことが大人にはある。

それに3回分の目的地にはすでに候補だってある。国立図書館、大学図書館、KaDeWe(デパート)。図書館をふたつ用意するあたり、クイズで「果物の種類」を問われて「赤リンゴ!青リンゴ!」と連答するような、苦し紛れの恥ずかしさがにじむ。チケット有効利用のために「何かKaDeWeで買うものないかなあ?」とRに尋ね、「イングリッシュマフィン!」と即答を受けるあたり、このやりとりもまた節約のための出費という甚だしい本末転倒を来している。なにやら、どうやら、どうなることやら、疑問も課題もただ積もってゆく。それでも最低限、現実を受け入れる準備はできている、とわたしはわたしを解釈する。その解釈の、結局のところ想像の域をでないような勝手さと能天気さにひとりで笑って、6月最後の月曜日がはじまった。