彼の見たもの、見ていたもの

とうとうフットボール・シーズンの幕が閉じる。いつもなら1週間前のチャンピオンズリーグ決勝が終わりの合図になるけれど、今年はそのあとも少し楽しませてもらった。ワールドカップを冬に挟んだせいだろうか、なんだかとても長いシーズンだった気がする。

昨晩のネーションズリーグの決勝は、クロアチア対スペインだった。スコアレスの120分からPK戦にもつれこみ、最後は4-5でスペインが勝った。わたしはそれで、すっかりエネルギーを使い果たしてしまう。というのもクロアチアを応援していたのだ。37歳の主将モドリッチには、最後のチャンスになるかもしれない。彼の悲願のタイトル獲得を心待ちにしていた。

もちろんわたしは、ただ試合を(しかも家で)見ていただけである。キックオフの5分前に快適な椅子に移動して、モニターとスピーカーを接続し、紅茶をお供に画面を見ていただけだ。それなのに「エネルギーを使い果たした」なんて・・何もしていないわたしの、このとんまな口が完全に裂けても言うべきではないと、断固自分を批難したくなってくる。ーそのくらい、実は応援していた。かれこれここ10年ほど、かなり熱く。なぜ縁もゆかりもないクロアチアのチームを?と聞かれたら、答えに困るかもしれない。でもこれは、好きなひとの理由を意外とはっきり言えないのと同じことだろう。格子柄のユニフォームはけっこう好きだ(柄モノの服も物もまったく持ってないのに)。でもなにより彼らの厳しく熱いプレーが好きだ。そこには小さいもの、小国の闘志みたいなものがしっかりと立ち上がる。なんとなくいつの間にか、好きになってしまった。

ただ見ていただけのわたしは、試合終了後のモドリッチの顔も、やはり見ている。それが心に引っ掛かって仕方なかった。彼らはチーム全員で、惜敗してなおエールを送り続けるスタジアムのサポーターに向きあって立った。それもなかなか長い時間。いつも試合を終える頃にはジーザスみたいに老成するモドリッチだけれど、昨日はいつもとも少し違うような、静かな成人の顔と透ける目をしていた。いつもとおりの固めの表情(勝利した時には当然いくらか弾ける)で、でも単純に悔しいでもなく、やりきった達成感とも違っていた。腰に手を当てて、何度も強く胸から息を吐き出していた。声は出そうで出ない。あるいは微かにこぼれていたかもしれない。

彼の目は何かを見ているようだった。けれど目の前にいるサポーターを見ていながら、サポーターを通して別のものを見ているようだった。何も見ていないようにも見えた。モドリッチはどこまでも透けるような強い眼差しで、何を見ていたのだろう?と考える。わたしは「見る」しかしていなかったのに、肝心の彼が見ていた「それ」を見ることができなかった。まったく、ぜんぜん。

さっき仕事から帰ってきたRが「去就についてモドリッチはもう心を決めているらしいよ」と言った。でもその内容については「(試合後の)今はまだ発表しない」と話したそうだ。あれは確かに何かを決めた顔なのだ。何が決められて、どうなるのかはわからくても、わたしのクロアチア愛はしばらく続くのだろうと思う。それから、フットボール・シーズンが終わって選手はしばしの夏休みに入るけれど、何も終わらないわたしはまだ休めない。まったく、ぜんぜん。それくらいのことなら、とてもはっきり見えている。