カナダ東部の山が燃えた。次々に、これまでにないくらいに。煙が流れ込んだニューヨークやワシントンの空気質は「世界最悪」の「不健康」なレベルに汚染されて、空はオレンジ色になった。でもこの世界(地球)で人間くらい不健康な存在がないことは、もうみんな知っている。汚したのは人間の方なのも、地球が丸いのと同じくらいはっきりしている。
煙った空の色が、彼らと重なった。オレンジ色のベストを着た人たち、「Letzte Generation(最後の世代)」と名乗る環境保護団体である。ひと月前ほど、ベルリンのわが家はその話題で持ちきりだった。
たとえば彼らの政府に対する主張は、アウトバーンの制限速度を100km/h以下にすべきとか、ドイツ全国で有効の公共交通機関・月額9ユーロ乗り放題チケット(2022年の6月から8月限定で実際に販売された)を継続すべきとかいうことである。シンプルに言えば、これ以上の汚染物質を地球に排出し続けないために、人間の移動の仕方について(改善というよりもっと)劇的な変革を求めている。そしてなにより、その抗議の仕方こそが劇的なのだ。
車列の先に突如現れて座り込み、道路を封鎖する。止まりかけの車列の前に数人(大抵は若者だが、いい大人だって見かける)でするりと割り込み、さっとオレンジのベストを羽織って、横一列に座る。そして手の平に強力接着剤を塗り広げて、手形を押すようにアスファルトにべったりと貼り付けるのだ。警官やドライバーから簡単に排除されて、バリケードが崩れてしまわないように。
ニュースでは、警官がとうとう手の貼り付いたままアスファルトごと切断して、その場から若者たちを移動させる衝撃の映像があった。朝の通勤を一方的に阻害されたドライバーは乱暴に座り込みをどかそうとして、逆に筋骨隆々の警官からはね飛ばされていた。警官から注意を受けて「なんで自分?排除すべきはあいつらだろう!」と怒鳴っている。「妻の迎えに病院へ行きたいだけなんだ・・」と打ちひしがれて訴える高齢の男性がいた。またあるドライバーは「あんたたち何かをやってるつもりだけど、何も意味ない!本当に意味ない!なんでこんな無意味なことやってるのよ!」と座り込みの若者たちに叫んでいた。「いいね」と親指を立てて、現場を走り過ぎる自転車乗りもいた。手を道路に首尾よく貼り付けるために、トレーニングをする人たちもいる。わたしはそうしていくつもの柔らかな手の平がアスファルトに張り付き、うまく剥がされきれずに傷つくのを想像した。思わず自分の手を開いて、しずしずとさする。
誰もがそれぞれに、それぞれの仕方で怒っているのだ。怒りはべつの怒りと結合したり、衝突したりして、行く当てもなく膨れ上がる。あのドライバーの叫びが暗い予言みたいに戻ってきて、わたしのひ弱な精神は一瞬ひるんでしまう。何の意味もない怒り、何の意味もない痛み、何の意味もない犠牲。ー もしもそうなら、そんなものどうしたって解消しようがないじゃない。
けれどあり得ないことでもない。だって、抗い合うかたまり自体には劣勢も攻勢もなくて、ただ全体に薄っすらとした敗北感が漂っているから。その「どうしようもなさ」みたいなものに、心がざわついてしまう。彼らがそう名乗っているとおり、いくつもの意味において、わたしたちは本当に「最後の世代」なのかもしれない。そしてそんな感覚は、とりわけウクライナで戦争が続くヨーロッパの暗さとも、なにかしらの相関関係があるのかもしれない。はっきりとはわからないけれど。
オレンジ色の煙を見ながら、「わたしにできることだったらなんだろうな」と考えた。そんな時は決まって「まずは自分の家の前のゴミ拾い」に戻る。すぐに確かにできることなんて、結局のところそれくらいしかない。(比喩でもなくほんとうにゴミを拾う。たとえば我が家のマンションは、時々ポスト下にちらほらチラシが落ちていて、床に張り付いていることがある。それらを拾って、内庭に置かれた親玉みたいに巨大で真っ黒な紙収集BOXへ持ってゆくのだ。)
それから、公共交通機関のひと月乗り放題チケット(49ユーロ、昨年の9ユーロチケットの対案として5月から登場)を買ってみた。いまは幸運にも都市部に住んでいるから、大抵いつもは徒歩で、時々は電車とバス、稀にトラムを使って移動している。しかしこの6月は「快活に外へ出よ、できれば遠くへ」という命題を自分に課すことにした。「机に座っているだけではダメだ!!」という、近しい2人からの叱咤激励も背中を押した。だから割引チケットの恩恵を受けるために、少なくともあと8回は遠出しなくてはならないのだ。なにがなんでも電車やバスに乗るために、目的地をこしらえて出掛ける必要がある。ともすると色々と逆さまな感じもしなくはないが、意味については考えない。あるかどうかもわからないとなれば、とにかく動くしかないのだ。
明日は家の前から黄色いバスに乗って、まわらない頭を持参して南へ向かうことになっている。ダブルデッカーだといいんだけど、なんて今から欲を出して。