ひと月前に首を痛めて通いはじめたPhysiotherapieも今日で6回、最終日である。症状自体はそこそこよくなってきていて、「あとは柔軟と運動。これからは自己管理しつつ、努力ですね」という話を朗らかに交わして終了となった。笑顔で挨拶したものの、どちらかといえば「こつこつ」は苦手なほうなのだ。わたしは「努力」の試される今後から目を逸らすようにして、なんとなく過去のことを思い出していた。はじめてこのPhysiotherapieに通った日の緊張を、よく覚えている。
それは1年とすこし前のこと。お気に入りのモンティ・パイソンのエコバックには、ライトグレーの半袖Tシャツとブラックのヨガレギンス、それにアイボリーのハンドタオルが入っていた。もちろん聞き馴れない「Physiotherapie」についての予習は、何日も前から念入りに済ませてある。整体施術のようなことがなされるのは予想がついていた。それでも、わたしにはどうしてもわからないことがあった。「何を着ればいいのか」ということである。
ネットで調べてみると、Therapieはたいてい白のポロシャツを着た、腕の太い施術師がおこなうらしい。ちなみにこの街のクリニックのドクターは、真っ白の半袖ポロシャツに真っ白のジーンズが定番である(合理的といえば、そうかもしれない)。ベルリンへ来た頃のわたしは、医者といえば真面目そうな「背広を脱いだサラリーマンが白衣を着た」感じの姿しか知らなかった。いきなりホワイトカジュアルのドクターが大股気味に現れて握手を求めてきた時には、爽やかすぎて眩しすぎて、面食らったのを思い出す。
いっぽう、Therapieを受ける人たちの格好といえばまちまちで、とりわけ上半身には自由が溢れていた。ある人は半袖Tシャツ、ある人はノースリーブ、ある人はブラ(いずれも白色無地とは限らない)、そしてある人は(背中越しの写真ではあるけれど)裸である。
たとえばこれはわたしの体験だけれど、ベルリンのヨガクラスにはちょっとレトロな花柄水着(ワンピース)のマダムたちがいたりする。わたしは(こつこつと通えずに)割引券を使い切ることはできなかったけれど、彼女たちの鮮烈なヨガポーズは忘れられない。しかも「どうせ汗をかくのだから」ということからすれば意外にも合理的だし、そのあとのシャワーは楽、家での洗濯も楽とくれば、なぜみんな水着にしないのかと逆に疑問に思うほどだ。そんなわけで、この街のこのPhysiotherapieではどのような格好がもっとも合理的かつ最適なのか?などと考えているうちに、ぐるぐると回ってどうにもわからなくなってしまったのだ。
結局、「寒がりなので、できればなにか着たいです」ー 間違いなくそう伝えられるドイツ語を念のため辞書でもチェックして、頭にたたき込んでから家を出た。けれどそんなセリフは(ぜんぜん)必要じゃなかったことがわかる。物腰の柔らかな担当者が登場して「もしもイヤじゃなければ」と前置きしながら、より望ましい服装について教えてくれたのだ。着てきた長袖のTシャツを脱いで、ノースリーブになればいいだけだった。そして気づくのだけれど、(いつだって)イヤならイヤと言えばいいだけなのだ。
小学校に上がるとき、母から「Kちゃん、イヤなことはイヤとはっきり言ったらいいのよ」と、それだけを何度も言われたのを思い出す。ちょっと臆病で気にしすぎる6歳のKを、わたしは知らずにベルリンまで連れてきていたのだろうか。幸運にもこの街は「気にしない」のと「イヤと言う」のを鍛えるのには、なにより打ってつけの場所ではあるけれど。
Physiotherapieの初日、ノースリーブのわたしはホッとしながら施術を受けることになる。しかしその最中ずっと、なぜノースリーブで十分なのに「上半身だけ裸」が起こり得るのか気になった。そしてそれより気になったのは、背中に敷かれたホットパッドから、たしかにザワークラウトの匂いがすることだった。
気になってばかりいて、まだまだではあるけれど、最終日にはいろいろと思う。生まれつき曲がっているわたしの首は、すこしはマシになっただろうか。