右斜め上の方からミニカバ、スノウドームの中からはミニ白クマが、黒目だけの眼でこっちを見ている。顔らしい顔のついた抱きごたえのある人形が昔から苦手だったけれど、この小さなふたつとは相性がよい。このところぜんぜん前進しない作業を目の当たりしても、文句ひとつ言わない。文句を唱えるのはいつだって、この部屋の人間のわたし。
「越境する文学」について考えていたら、自分が飛び出していってすっかり迷路に入ってしまった。ほんの3日前に、とことん進んでみないとその選択の正否がわからなくて、間違いがわかった時には手遅れという、迷路についての恐ろしい文章を読んだばかりだった。
そういうのは感染するのかわからないけれど、我ながらおとぼけぶりに驚く。あの時もう既に、自分は「そこ」にいたのだ。あぁコワい、そういうのってホント困るよねぇと眉を寄せていた。迷路の中で。それで今になって、ちょっと違うところを曲がったらしいこと(それも一つじゃなくて幾つか)にまでくっきり気が付いた。まあ、それほど悪くない。気が付いたんだし。おそらく。
やってきた迷い路の途中には「世界文学」や「全集」の言葉があって、ヨーロッパ中心の教養主義の流れだとか、出版社が仕掛ける資本主義の波だとかにもれなく乗せられていたことを改めて思う。といっても、波乗りそのものは間違いなく眩しい体験だった。あの時わたしのなかを通り抜けていった物語に感謝している。
同時に思う。「それ」が起こってる最中に小さな違和感に気が付いたり、さらには声をあげたりするのはとても難しい。子どもならなおさら、大人でもたいてい。自分の居場所すら、ただしく掴めないこともある。
小学生になりたての頃、青空の日に風邪を引くのはわたしの運命だった。雨の日なら、下校途中の楽し気にはしゃぐ声なんて聞かなくてよかったのに。布団からもぞもぞと生白い手を伸ばして、枕元のレコードの音量をほんの少し上げる。児童文学を集めたレコードが家にはあった。きっとか弱い娘の運命をカラフルにするために、揃えてくれたんだと思う。
わたしは『幸福な王子』が大好きだった。元気やハツラツにはかなり遠い気がする。だとしても。