モノはたくさん持たないけれど、モノ持ちはいい。モノも友達もそんなに多くなくていい、そんな歌詞もあったしね。バッグはいつだって小さかったし、友達はほどほどに少ない。理由はわかってる。でも自分の手と気持ちに繋がったものは、できるだけ長く傍にいてほしい。好きで遠くまで来てしまったくせにおかしなことを言う。そのための努力をしたって難しいときもある。日曜日の夜、22年使った電気炊飯器が壊れた。
象印の圧力IH、乳白色の3合炊き。働いて一人暮らしをはじめた2002年から、わたしのキッチンにずっといる。みかけより数倍重たい金庫みたいな変圧器をわざわざ日本で入手して、ベルリンまで一緒に越してきた。さすがにここ3年くらいは向こうも疲労を隠せなくなって、これまでどおりの炊き方だとスッキリふっくら米粒が立ち上がらない。負けん気もなくベチャりとなるから、ストイックに水を減らしてハングリーにさせる必要があった。タイマーのプラスチック部分は少しひび割れて、数字が4なのか9なのかよくわからない。
それでもうまいこと応援して付きあえば、ご飯はいつだって美味しかった。とつぜん壊れたのだって、本体じゃない。電源プラグ近くの曲がったコードのひとところから、パチ!と音が弾けたのだ。体は丈夫のままに、言葉どおり生命線が切れたことになる。いさぎよくてドラマチックな幕切れに、わたしのほうが追いつけなかった。
「まだ使えるんじゃない?」「あぶないよ」「でもまだどうにか使えるんじゃない?」「でもあぶないからやめたほうがいいよ」ー儀式みたいに空っぽな押し問答をRと交わすあいだに、ようやく腑に落ちてゆく。わかってた。そろそろ来るころだった。よく使い込まれた炊飯器の胴体を両手で包みながら、わたしはお別れをいう。長いあいだ、本当にありがとう。きらきら星とアマリリスのメロディーを聴くことはもうないと思うよ。
馴染んだ景色が変わる。ドイツのKücheになってしまった。けれどまだ頼れるモノもないわけじゃない。きょうの夜は、岩鋳のたこ焼き器に希望を託すことになっていた。なんだかもう、どこでもないところの台所にいる。