夜明けのすべて

木曜日の夜、ベルリン国際映画祭で上映される邦画作品を観にゆく。座席指定のないチケットだから上映の1時間前には家を出ようーそんな話を朝食のときにかわして、わたしは卓上メモに「20時OUT!!」と大きく書きつけた。そうでもしないと、出掛ける時間をつるっと過ぎてしまいそうになって危ない。ベルリン・マジックである。

歩いて15分の映画館は、赤い肉厚のビロードが似合う古きよき劇場といったふう。座席数は600を超える。大通りに面した作品告知の大看板はいまだに手書きで、ときどき主演俳優があまりにも似ていなくてうっとりするほどだ。立ち止まり目を細め、なにがこんなにも人を別人に見せるのかと考えているうちに、ぜひともこの映画を観なくてはという気分にさせられる。手書きの魔力か、それも含めた映画館の戦略か、いずれにせよ完全にとり込まれているということか。

その夜はそれこそ(本来の意味で)ぜひとも観に来た人たちで溢れていた。早すぎるはずの到着はちょっと遅いくらいだった。主演俳優と監督の舞台挨拶があるから「やばいよね、ぜったい最前列」ということらしい。集中せずとも飛び込んできてくれる日本語がそう教えてくれた。ほとんど最後列に座るために早く来たわたしは申し訳ない気にならないでもなかったけれど、おのおの最善を尽くすほかない。

ようやく後ろの方の席を確保して待っていたら、すぐ近くの3列前あたりに主演俳優と監督たちが入場してきた。今度ははっきり申し訳ない気がしたものの、最善を尽くした結果なのだし仕方ない。

ファンの熱狂とベルリン流の仕切りの悪さで遅れてはじまった映画は、その夜とおなじでとても長く感じた。終わる頃には季節も変わり、館内の温度は初夏だった。『夜明けのすべて』は、重たいPMS(月経前症候群)に翻弄されながら暮らす20代の藤沢さんと、パニック障害を患い精気なく生きる同僚・山添くんの物語。友情でも恋愛でもない男女の関わりと、ふたりの居場所である職場の人たちとのエピソードが交差して描かれる。

エンドロールを送りながら、両手がぐずぐずしていることに気がついた。たいていの映画は好きでも嫌いでも「終わりました。はい、ありがとう」の調子で拍手できるのに、その日はどうも手も気も沈む。失われた30年のあとを生きる若いふたりは、ほとんどのシーンで辛そうだった。かといっていまの世の中をつくった大人や社会システムに疑問や怒りをぶつけるでもない。そんなエネルギーは残ってないし、余計にしんどくなるだけだ。

静かに傷つき、静かにフェイドアウトする。大きく呼吸するよりも、息を潜めるほうが安らぐ。誰かとコミットしすぎずに、程よくすれ違っていくのがいい。映画はそういう「やさしさ」を匂わせる。もやもやとなる。だって、たい焼き屋の前を通り過ぎるだけではお腹は膨れない。「それでもほら、いい匂いでしょう、たしかにするでしょう?だから君たち、まだ大丈夫な気がしない?」と言うのなら、大人はあまりに身勝手で無責任な嘘つきではないか。

いいえ、無理!ちゃんとたい焼きください!ーそんなふうに思うのは、もしかしたらわたしがわりと長く生きて、遠くまで来すぎたせいなのかもしれない。色々と変わってしまっただけのことかもしれない。

まとまらないのは、つまりはこの映画を観たあとはひどく脳内が霧がかってしまって、激しい怒りが(底にあるはずなのに)言葉のほうまで沸きあがってこなくなるということである。映画の匂わせていた「やさしさ」みたいに、鑑賞者は作品の問題から静かにフェイドアウトして、程よくすれ違うしかない気がしてくるのだ。その意味では、描いている内容どおりに仕上がっていると評すべきなのか、これこそ時代のリアルなのか、わからない。またうっすら腹立たしくなる。

映画館から帰るとき、手書きの大看板が見えた。少し前はヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の『パーフェクトデイズ』だったのを思い出す。おなじように主人公の平山も静かに傷つき、静かにフェイドアウトするように生きていたけれど、彼は少なくとも「人と人は重なりあえる」と信じていた。人の影がふたつ重なったら、濃くならないわけがないと言った。

徒歩15分の帰り道は、いつもどおり映画の感想になる。「あれさ、『すべての明け方』だけど・・・」というRの最初の発声でもやもやがふき飛んでいった。同じ意味なのに、ずいぶん呑気すぎる響きだ。その日の夜の重さが、すこしだけ軽くなった。

『夜明けのすべて』/ „All the Long Nights“ (2024) / Directed by Sho Miyake