のんびりした地域ののんびりした地下鉄に乗っていると、案外のんびりしていられない。異邦人のわたしの角が隠しきれずに立ってしまって、いつ指摘されるんじゃないかと緊張するから。その日の13時、珍しく7割くらいに混雑した車内で、わたしはいつもより体をちいさく丸めて車両の隅に収まった。身を消して観察するには最高の位置だった。
一駅あとで、向かいの席に目だけ驚いた顔の中年男性が座った。上下デニムの着こなしで、ビッグフレームの70年代風メガネがやけに分厚い。情感をすっかりウォッシュしたあとのウィレム・デフォー。背中に太い物差しを入れている、そんなたぐいの背筋の伸ばしようで顎を引き、顔を真横に向けて、超至近距離から隣の人を凝視した。
あまりの異様さにわたしもデフォーの隣席を見やるのだけど、ブロンドのツインテールの彼女が気になるのは自分の手のひらとピンクの爪らしい。本のページをめくるみたいに一定の間を置いてはひっくり返して、ときどき斜め上を見る。「それよりあなたの右横でしょ!?」反射的に声が出そうになって、わたしはさらに小さくなりながら周囲に目を走らせた。
のんびりの漂う車内で、誰もこの奇妙な釘付け行為を見ていなかった。誰ひとり周りを気にしていない。例の彼だけが、相変わらず律儀に首を90度に曲げて左を見ている。「なにを見ているの?なんで見ているの?」知りたくてしようがないのに、誰も見ていないから誰ともこのもやもやを共有できそうになかった。
とはいえデフォー本人から真相を教えてもらう勇気もない。「このままどうぞ90度のままでいてください」ー小心者ぶりを発揮して祈った。彼との視線の合わせ方をわたしは知らない。解消しようのない疑問が膨らんで頭が混み合ってくる。ちょうどそのタイミング、きっちり7駅目で、乗客が一斉に立ち上がった。デフォーとツインテールも、それぞれ何事もなかったかのように前後に並んで電車を降りていく。
家に戻ってから気づいたのだけれど、あれはわたしを引っ掛けるゲームだったのかもしれない。みな知っていたのだ。わたしはむしろ、観察されるほうだったのか。玄関脇の姿見鏡の前に立ってみる。大丈夫、角は出ていなかった。