家の前の通りが封鎖された。朝から何度もサイレンが北上していったことに関係があるらしい。人の思考力も行動力もすべて奪うくらいの強烈な音量のサイレンが、今朝だけで大体7回は通り過ぎた。ただ事ではない、さすがに多すぎる。ああ、そしてきっとまたシワも増えたろうと思う。サイレンを聞くとどうしても、わたしは眉寄せ目を細めて、鼻のあたまにほそい横スジを入れてしまうのだ。もちろんはじめは結果的に必然的に、そうならざるをえなかった。けれどいつの頃からか、それは条件反射に変わったような気がする。遠くの方からやって来るまだ成体になる前、パダワン未満の空耳のようなサイレンにさえ、すでに表情がスタンバイを始めてしまうのだ。わたしはとりあえず願う。近隣で起きている得体の知れない事件か事故がエスカレートしませんように。これ以上のサイレンが今日はもう、鳴りませんように。
日曜日でも祝日でもない日の静寂は、なんとも心地いい。車もバスも走らない。それによってか人通りも極端に少ない。ふたり組の長身の警察官が道路の真ん中に車両を停めて、腕組をしてマネキンのように立っていた。そこへ通行人が入れ替わり立ち替わり話しかけに行く。いま起きていることの説明を、彼らはきっと1時間に30回くらいのペースでしたかもしれない。おそらくは回を重ねるほどに上手くなるその説明の、一番最後の流暢なものを聞いてみたいとわたしは思った。通りの先の方には、集まった救急車や消防車の青い警光灯がわずかに見える。どうやらあのあたりで何かが起きたみたいだ。いつもは騒音で小さくしか開けない窓を、わたしは空に白い鳩を放つみたいな心持ちで大きく開け放した。起きているらしい不穏な何かの陰で清々しさを得たみたいで、なんだか後ろめたい。
多くの音が聞こえなくなって、いつも聞こえなかった音が聞こえてくる。まず、喉をふるわせて歌う雀の声。「チュンチュン」は意外にも野太く止むふうも一向になく、あたりに反響しているのだ。日本にはスズメの焼き鳥というのがあるけれど、か細くてこんなにも小さな鳥をわざわざ食べなくたって、と思っていた。ところがこちらで見かける雀はちょっと大きくて(人のサイズと比例するみたいに)たっぷり幸せそうに丸く、これは食べられる!と考える人がいても正直驚かないし、わたしはたぶん覇気なく頷いてしまうかもしれない(とはいえドイツで雀を食べるとは聞かないけれど)。
つぎに自転車の音。ずいぶん壊れそうな自転車のホイールがキシキシと鳴きながら、通り過ぎていくのがわかる。そんな音いつもはこちらにも聞こえないから、きっとその自転車の人にも派手には聞こえなかったのかもしれない。でもその至近距離で、ほんとうに?そんなになるまで放っておいて一体どんな人が乗っているんだろう?とわたしはとうとう立ち上がって、窓際まで行ってみる。けれどもうその人はちょうどどこかの角を曲がったみたいで、見えなくなっていた。なにかに悪戯されたような気になる。静かになってさぞや作業が捗るでしょうと自信を得たのも束の間で、耳から入る音は少なくなればなるほど、わたしの頭は妙な方向に走るらしい。
そして、・・と書くところでケタタマシイ呼び鈴が天井から落ちてくる。そうだった、DPDのおにいさん(時々我が家に配達をしてくれるドライバーで、最近はよその通りで見かけても手を振ったりする)を待っていたのだ。彼の配送車両は無事にここまで来れたらしい。気がつけばいつのまにか雀も自転車も後退して、通りにはいつもの騒音が戻っている。そこへ一台の車が強烈な音量でやってきた。今度は緊急車両のサイレンではない。聞いたことのない音楽が「ハッピー・ネーション!ハッピー・ポピュレーション!!」と叫んでいる。本当なのか嘘なのか、ただの空耳なのかと考えながら、わたしはそろそろと窓を閉めた。