『ケイコ 目を澄ませて』

顕微鏡を熱心に覗き込んでいたら、普段はぼんやりとするいろいろが鮮明に視界を占領して、まるで現実サイズのもろもろはどこかへ消えてしまったような感覚になる。小さいと思っていた世界がほんとうは小さくなくて、逆に世界とわたしをすっぽり包み込んでしまったみたいに。ー そんな体験から戻ってきたあとの疲れ(のようなもの)が、観賞後に残った。

主人公ケイコの生きる日常に、映画は丁寧に接近し続ける。音を効果的に、大袈裟に拾う演出もその試みのひとつなのだろう。電車が通り過ぎるときの轟音、コンビニの自動ドアが開閉するたびに鳴るチャイム、せわしない道路からこぼれる自動車の音(エンジン音なのか、道路や風を車が擦る音なのか)。それらはバッググラウンドというにはいささかうるさくて、映画にしてはちっともいい感じに鳴りやまない。けれど「音がよく聞こえすぎる」ことが、かえって耳を閉ざさせる。わたしはいつのまにか両耳に蓋をしたようにして、作品に「目を澄ませ」ることになる。ちょうど主人公の世界に近づくみたいに。そこで目にする16ミリフィルムの粗い光は、そんな鑑賞状態にほどよくやさしい。ちなみに家で映画を観るとき、わたしは感想(まれにヤジ)をぼそっと口にすることがある。けれどこの作品のあいだは、きっと神妙にむっつりしていたはずだ。話しかけられたときの反応も悪かったろうけど、別に怒っていたわけではない。ケイコも怒っているように見えて、きっと怒ってはいなかった。

といってこの作品は「聞こえなくとも見えればよし」とか、「コミュニケーションはどんな言葉でもなく心でするもの」とか、そんなメッセージを秘めているのではないだろう。映画の中心にあったものは、シンプルに「人間の身体」だったように思う。それは言葉のひとつ前の層、心のもうひとつ別の層にあるものだ。たとえば、作中にときどき登場する人間の声。誰かを責めたり、相手の望まない言葉を投げるときでさえ、圧力はかなり低い。ボクシングジムの会長がケイコに、本気で闘う(つまり相手を拳で殴り倒す)気がないならやめるべきだと助言するセリフさえ、攻撃性は低く、極めて静かなのだ。試合で劣勢のケイコが咆哮さながら叫ぶシーンはあるけれど、これも「声がついに登場した」というよりは、「ダメージを受けて傷む肉体がどうにもならない音を発した」ように伝わった。

試合で殴打されて気弱になるのも、痛みが嫌いなのも、家から遠くて新しいジムに通うのが難しいのも、どれもケイコの身体がただ要求するからなのだ。もちろん彼女にはスピリットも心も、言葉もある。けれどもっとも原始的な意味において、人は「肉の塊として生きている」ことを思い起こさせる。言葉は声として耳に聞こえようが、手話として、文字として目に見えようが、あるいは沈黙で以心伝心しようが、そもそもいつだって身体とともにあって身体から生まれるのだ。

そう考えるなら、違和感を覚えた終盤のワンシーンは「あえてそう演出した」ともとれる。ケイコと弟の手話のやりとりを、わざわざシーンを切って台本のセリフのような縦書き字幕で説明する場面だ。ふたりの身体的に交わされる会話を(手話のわからぬ鑑賞者でも彼らの心情をなんとなく想像できるのに)わざわざ文字として映し出すことで、不自然さを強調したのかもしれない。言葉が乱暴に身体に割り込んで、単独で前面にしゃしゃりでることのアンバランスを「わざわざ」映像で見せた、ともとれなくはない。

もちろん、よいなと思ったワンシーンも映画にはある。ラストの土手で、ケイコが敗れた対戦相手から声をかけられるところだ。負けたのは自分(ケイコ)ひとり、勝ったのは相手(その女の子)ひとり、結果は明らかにふたりを別つものだけれど、そこには確かに「繋がり」と「交換」があるのだ。素直にそう感じた。ケイコは完全に孤独でも、パワーレスでもない。身体をもって力を尽くす彼女たちに、陽が射さないわけはないだろう。なかば願うように、強く思った。

『ケイコ 目を澄ませて』(2022) / 監督:三宅晶