子どものころ、欧州の空気(のようなもの)に惹かれた。物語を読み映画を観ては、その空気を頭のなかで吸っている気になった。鬱蒼としてどこか暗く、それでいてカラッとしている。こちらに来てしばらくして、その欧州っぽさはただの「堆積した埃」ではないかと思うようになった。ピカピカでないものの発する意味あり気な鈍い光。古いもの、なかなかどかないものの落とす色の濃い影、湿気のない空気。その条件からうまい具合に光に透けて、薄っすら積もりゆく埃。たとえば「裾のほつれたセーターをさらりと着こなす素敵パリジェンヌ」が成立するのは、シンプルに、人がそのような埃のなかに暮らしているからではないかとさえ思う。
昨晩の『夜の来訪者』は欧州的、とりわけBBC制作による英国的な空気をもつ作品であった(例の戴冠式のイメージが脳裏に残っていて余計にそう感じたのだ、という噂もある)。映画は1912年、第一次世界大戦前夜の、ある冬の夜の数時間を描いている。舞台は薄暗い木立のなかに佇む大邸宅の一室、血統と富によって社会の上流に座るバーリング家の豪奢なダイニングルーム。ある意味、存在自体が「堆積した埃」のような家族である。その家の娘の婚約を祝う夜に、突然ひとりの警部が訪ねてくる。自分は新しく配属されたグール警部であると名乗る男は、長身で、いかにも英国的なスリーピースのスーツを着こなし、ロングコートとハットも欠かさない。彼は「取り調べに来た警部」にしてはやけにドライで淡々としていて、「事件を現場で追う警部」にしては、汗と無縁すぎる雰囲気なのだ。グール警部の口からは、ひとりの若き女性の悲しい自殺が知らされる。けれど情報はあくまで少しずつ、とても不十分な程度において示されるのみで、そのうち家族のメンバーが警部に代わって自発的に、不十分を補う説明をすることになる。つまり、全員が何らかの形で、その女性に関わった過去があったのだ。
映画を観終わって思う。「あった」過去が、現在において時折「なかった」ものにされることについて。映画は倫理的な問いを投げかける。「なかった」ことにされた過去は、ほんとうに「なかった」のか?未来に「あるかもしれない」ことは、今わたしたちの目の前にほんとうに「ない」のか?変えられないのは過去なのか、現在なのか、それとも未来なのか?
そして、ともすると「なくなった」と思っていたものは実は「なくなっていない」かもしれないこと。けれど「なくなる」ことを誠実にわかってもらえないことで、本当に「な(亡)くなってしまう」こと。
回想シーンは別にして、密室で行われる饒舌すぎる会話劇は、この映画がもともと1945年の劇作家J・B・プリーストリーの同名戯曲であることに因る。フォーマット違いでもずいぶん楽しめたものの、戯曲として観られる機会があったなら!と思う。とくに1992年のスティーヴン・ダルドリー*によるリバイバル上演は、過去に戻れたらぜひ観たい。そのころのわたしは欧州の空気を想像で吸っていたくらいの年端だけれど、いまの(悪)知恵を持ってすればきっと、何かしらの方法を見つけられるような気はしている。
“An Inspector Calls” (2015): Directed by Aisling Walsh
*スティーブン・ダルドリー(Stephen Daldry)は『リトル・ダンサー(Billy Elliot)』(2000)や『めぐりあう時間たち(The Hours)』(2002)の監督である。後者はとりわけ、わたしの好きな映画のひとつ。