べルリン・フィルハーモニーは久しぶりのほぼ満席。DSO(ベルリン・ドイツ交響楽団)の演奏はこれまで聴いたことがなく、ピアニストは代役指名を受けた藤田真央。彼の演奏もはじめて。楽しみである。
この夜の指揮者オクサーナ・リーニフは、焦げ茶の太い帯のようなベルトを細身のウエストに巻きつけていた。わたしはすぐにウクライナの伝統的な戦士の衣装を連想してしまう。こちらの席は彼女を斜め前方から見据える位置にある。そのせいもあったはずだけれど、視線を外すことがなかなかできなかった。
ぼんやりしていたら1曲目がいつの間にか終わっていて、ステージのピアノに控えめな背中が近づくところだ。藤田真央はやわらかく揺れる黒いシャツを着ている。そのリラックスした風合いとは対照的に、これから彼が弾くのはラフマニノフ、ピアノ協奏曲第3番である。この曲は「まともに弾くのも難しい」と言われているらしい。音楽理論的な根拠はもちろんあろうが、なにより作曲家は2メートル近い大男だった。視界にとらえる鍵盤の世界も、ぱっと開いた親指小指におさめられる音の幅もずいぶん違うだろう。その明らかな肉体的ギャップを技術で越える、集中力と表現力も総動員して乗り超える、というのは並大抵のことではないはずだ。
その日の協奏曲第3番は、藤田真央らしさによって演奏されていた。音を出すときも出さないときも、一貫して丸まった背筋でネコのように座る姿も特徴的だ。テンポの高揚する激しい場面でも、鍵盤が叫びつけるような強さはない。あくまでも穏やかに秘められた強さによって、一音一音が送りだされているふうである。繰り返し表れる主題の淡々とした旋律は、ボソボソとした無表情の呟きというより、その場に寄り添うヒソヒソ声のようだった。第一楽章のところどころ、オーケストラとの協奏のバランスを欠いたようにも感じたが、そこは指揮者リーニフが音を引っ張りまとめあげた。熟練とか達人の演奏というのではないのかもしれない(いまはまだ)。それでも、ピアニストの思いを受け取ることのできるような演奏だった。
最終楽章が終わって大きな拍手が鳴った。わたしも破れるくらいに両手を打った。ウルトラマラソンを走り切ったランナーに向けるエールは、こんなふうだろうか。