モノクロ映画で眠たくなるのは仕方ない。お洒落な単館系作品の鑑賞に耐えうる「尖ったスピリット」は、もう持ち合わせていないのだから。そういうことにしていたが、そうでもなかった。スピリットは「まる」のままでも「眠るかどうかは作品に依る」という、きわめて納得の映画体験となった。
ヴェンダースのとらえる構図はとにかく美しい。桟橋、道路、ダイナーの横長窓、MOTELのネオンサイン、空中鉄道の線路、長い長い列車。冷たくて硬くて、乾いたものの輪郭線が、画面を大きく横断(ときには縦断も)する。人間はそのなかにうまく収められて生きている。もちろん人間が主役の作品ではあるけれど、映画はその内側をのぞき込んだりして描かない。それよりも彼らが生きる世界自体、外側のフォルムを丁寧に切り取って映しているようだった。
ドイツ人ジャーナリストのフィリップ・ヴィンターが何故そんなにアメリカ旅行記を書けないでいるのか?アリスはそれまでの9年の人生をどのように過ごしてきたのだろう?母親は約束のエンパイア・ステート・ビルに来るつもりなど最初からなかったのでは?ー作品はなにも説明しないまま、しかし最後にはふたりして(おそらく)「進むべき方向」の列車に乗って終わるのである。
最後のシーン、向かい合わせの席。アリスから「ミュンヘンで何するの?」と聞かれたヴィンターは「物語を書き上げるよ」と答える。つづけて「君は?」と返すヴィンターに、仏頂面のアリスは何も答えない。この結末はわたしをすこし不安な気分にした。けれどその直後に画面が切り替わる。列車の窓からおそろいで顔を出すふたりは、強い風を受けていた。山沿いを走る高速列車を、カメラはぐんぐん上昇して高度からとらえつづける。列車から線路へ、うねる川縁、畑を仕切る柔らかな線が映った。そこからさらに高く昇って、山の尾根や稜線までもみえてきた。ーそこで、映画が終わった。心持ちは暗くない、切なくもなかった。旅行記執筆の目的を晴れやかに見据える大人(ヴィンター)と、目的も予定もなくとも嫌でもこれから成長して大人になる少女(アリス)。両者のどちらがより純度の高い可能性と眩しい光を秘めているのかは、きっと答えるまでもなかった。
画面を多く埋めていた冷たくて硬くて、乾いたものの輪郭線が、最後に自然の柔らかな線に変わっていったときに、わたしはなんだかそう思ったのだ。
“Alice in den Städten” / “Alice in the Cities” (1974): Directed by Wim Wenders.